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名所・史跡・城 [ 大分 ] 重光家

施設情報

「重光葵(しげみつまもる)」の名前は戦中前後の日本史に永遠に残る名前である。昭和の動乱期に外務大臣を務め、終戦後、アメリカ戦艦ミズーリ号船上で『ポツダム宣言』受諾の降伏文書に記したその名前こそが「重光葵」。

明治20年(1887)に大野郡三重町(現豊後大野市)に士族の次男として生まれ、3歳の時に父の実家の杵築に移住。杵築高等小学校、首席で卒業した旧制杵築中学と少年期のほとんどを杵築で過ごした。努力家で蔵の2階で勉強に励んだという屋敷が今でも残り、「無迹庵(むせきあん)」と名付けられ、遺品や写真の数々が展示されている。名前の「誇れるような足跡や実績がない」というその意味には、重光の謙虚な思いが込められている。その後熊本の第五高等学校から東京帝国大学独法科を卒業、外務省へ。ドイツ、イギリス、アメリカなど主要国の外交官として活躍、戦後は鳩山内閣の副総理と外務大臣を兼任するほどの国策においても外交においても要となる重責を負った。中でも日ソ国交回復や国連加盟における重光の功績は大きい。

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